【97・98】秋田市-にかほ・県境

今回は漫画を読まず、用事を済ませて眠りについた。今夜は雨が降る。それまでにある程度進んでテントを張るか、屋根のある良さげな場所を探さなければ。ということで今日は移動がメイン、国道7号を南下する。

下浜サンセットラインという新しげな道路からは、遠く男鹿半島と寒風山が見えた。この道路は2020年に開通したらしく、交通量がとても多い。開通以前、海岸沿いの道路が現道で、慢性的な渋滞、頻発する事故を受けて道路開発が決まったらしい。1日の平均通行台数は約16000台だそうだ。

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日本海側だから由利本荘も夕日推し。確か友人の大学はここら辺だったような気がしなくもない。道の駅磐城の建物はカナダのケベック州の様式を意識しているらしい、詳しい内容はわからないが...
ここにある漁港は島式漁港と呼ぶらしく、遠浅で干満が激しい海岸での漁業のために作られた。北海道長万部にあった国縫漁港もこの類で、あそこは日本で初めて作られた島式漁港だった。
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昼飯は適当に作ろうかと場所を探りながら走っていると、慰霊碑が立つ小さな日露友好公園を見つけた。北方領土が絡まない露の文字は久しぶりだ。1932年、由利本荘深沢にロシア漁船が遭難してきた。当時の秋田魁新報は「赤露の漁船松ヶ崎海岸に漂着」と記事を出したそうだ。当時ここら辺ではロシア船漂着が何度かあったそうだが、生存者がいたのは珍しかったそうだ。小さな漁船には3名の生存者と1人の遺体が乗っていた。3人は現地民から救助を受け、亡くなってしまった1名、ニコライ少年はこの地の共同墓地に埋葬された。彼らは函館の領事館から敦賀経由で母国へと帰ったそうだ。この公園にはニコライ少年の墓が建っている。漂着事件から数十年後、救助した現地民の子孫がこの碑を建てるためにロシアとの交流を図り、漂着した船員たちの子孫と慰霊会を催すことができたそうだ。
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目的地の飛くずれキャンプ場に到着、入り口にロープがあり嫌な予感が。利用する場合は前日までににかほ市へ連絡するようにと書かれている。事前に市のHPを漁ったが初見だ。ダメ元で電話をするも、だめ。しかし南の県境に三崎公園キャンプ場があり、そこなら当日でも大丈夫と教えてくれた。おそらく電話越しの女性は車で来たと思ってらっしゃるのだろう、追加20km。f:id:RSSHAKE:20210711193706j:image

何回か通り雨に降られ、17時過ぎに到着した。本当に県境にある。管理棟はカーテンが閉まっている。仕方がないので料金は明朝払うとして設営を済ませる。終了後20分ほどで雨が降り始めた、ギリギリだった。結局昼飯を作れていなかったので、ぱぱぱっと夕食を作って眠る。
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翌朝起きると雨はまだ降っていた。キャンプ場にはアリの巣が多く、大小多くのアリがテントの近くで群がっている。こんな日に動いてもしょうがないので今日はここに留まり、自転車の整備をする。昼過ぎまで眠り、起きると天候は回復していて、自分以外のテントが4つも張られていた。そういえば今日は土曜日、世間は休日。

整備を始めてすぐに太陽が雲間から出てくる。油と汗で気持ちが悪い。効率のいい整備の流れがいまだにつかめていない。チェーンの清掃→後輪を外しスプロケット→プーリーとチェーンリング、この流れを次回試してみよう。

整備を終わらせ、三崎公園を見て回る。奥の細道の看板があちらこちらにある。芭蕉好きならたまらないのだろう。遊歩道の範囲は広く、三崎の名前通り、遊歩道は三つの岬へとつながっていた。
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テントへ戻ると両側のキャンパーは夕飯を囲んで賑やかだ。話し声も楽しそうだが、酒を飲んでいるのだろう、右から曖気、左から放屁の音が度々聞こえる。少々気を落とし、20時には眠った気がする。

明日も無事でありますよう、気を付けます。f:id:RSSHAKE:20210712072904j:image