※本日も、震災について触れます。ご注意ください。
昨晩は久々の風呂に入った後すぐに寝てしまった。起きたのは朝5時ごろ。充電を忘れてしまい、起きてすぐ始めるも終わったのは8時半。寝る前にやることはやっとかんと。
浪江駅から電車で向かう。駅周辺は更地だったり、人がいなくなった建物があったり、国道沿いとは雰囲気が違う。浪江小学校には作業服を着た大人が数十名前いた。この学校は取り壊されてしまうようだ。
常磐線が全線開通したのは2020年の3月。9年間浪江から富岡までは不通だった。車窓の景色は双葉に近づくにつれ、更地や伸びた草木が多くなる。
双葉駅に着いた。駅舎とコミュニティーセンターはとても綺麗だ。
時計はあの時刻でとまっている。緑のブルゾンをきた職員が話しかけてくれた。まだここは上下水道も壊れたままで、買い物するところも、教育機関もなく人が住むにはまだ時間がかかるそうだ。来年の春には駅東口に住宅区画ができる予定だが、まだ具体的な月も決まっていないそうだ。近くを見て回ることを伝えると、地図や線量計(無料で貸し出してくれる)は必要か丁寧に対応してくれた。双葉駅周辺は昨年3月ごろに避難指示が解除された。しかし駅から離れたところはまだ避難指示区域のため、バリケードがあり通行証がないと通れない。地図だけいただき駅を出る。
駅前の道を進むと、双葉厚生病院が見えてくる。中には入れないが、駐車場のコンクリートから生える草、停めたままさび付いた自転車、割れたガラス窓やその中から見える器具、おそらく当時から倒壊しないように手が入っていると思うが、廃墟だった。近くにある設置型線量計は1.183μSv/hを示していた。
病院から南へ、住宅街だったところへ進む。屋根瓦が散らばった家、窓に板を張り付けている家、草木に囲まれた家、解体作業中の家。人の気配は全くない。いくつかの電柱は傾いたままで、野原となってしまった土地が広がるところもあった。復興シンボルロードと呼ばれる大通りにはダンプカーが多く走っていた。
この土地に人が住めるようになるのはいつになるのだろうか。あの日から約10年後に来ることができたが、それよか前はどんな状況だったのだろう。川沿いには浜街道桜プロジェクトで植えられた桜がある。「もとの双葉に戻りたい。」30年後の故郷に送るメッセージカードにあったこの言葉が記憶に残る。
復興は進んでいるか。道路や電車は通り、人がいけるようにはなった。しかし人が住むことはできない。進んではいるが、まだ終わっていない。戻りたい人が戻れない。町の時間はまだ止まっていると、動かなくなった自販機と飲料やタバコのパッケージを見てそう感じた。
私は今後もこの地域の情報を得よう。
駅に戻り、初発神社へ。震災後初の式年大祭が行われていた。今日双葉に来れたのは本当によかった。
福島・双葉の初発神社で事故後初の式年大祭 帰還に向け安寧祈る | 毎日新聞 (mainichi.jp)
最初にあった職員さんとまた会い、感謝を伝え双葉を離れる。
浪江駅に戻り、道の駅そうまへ走る。海沿いの道は津波の被害で野原となった土地と堤防が続いていた。風が非常に強い。
道の駅に着く少し前、ある定食屋さんによる。海鮮丼をいただいた。このお店は4月末で閉店してしまうそうだ。
20時ごろ道の駅に到着し、休憩室で夜を明かす。
明日も無事であります様、気を付けます。