【17】大河原-相馬

※今回から3日間は震災について触れます。ご注意ください。

 

大河原の川沿いの葉桜を見ながら岩沼へ出発したのは朝6時頃。久しぶりに海沿いの道が見えてきた。

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仙台へ向かうか、相馬浪江方面へ向かうか。当初は仙台であったが、相馬に決めた。気温が上がらないのと、震災被害が一番大きい地域に近い所にいる事が理由だ。道路状況を調べていないから、どこまでいけるかわからない。

 

県道38号線を南下する。向かい風がひどい。この道路は津波被害を受けた常磐線の旧線路を盛土してできた道路だ。2週間ほど前に全線開通したようだ。

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公園で昼飯を作っていると、爆音キーボードお爺様がいた。キーボード・ウクレレ歴40年。昔はトラック野郎だったそうで、青森の竜飛岬が相当田舎だったことが今でも覚えてるくらい衝撃的だったそうだ。

 

お爺様と別れ、道の駅そうまへ向かう途中、校舎が見えた。しかし周りには何もない。「中浜小学校」震災遺構だ。初めて知った。

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震災遺構とは、それが原因で被害を被った建物を保存し、後世に災害を伝承するためのもの。遺構は3つの分類に分けられている。数は多い。

遺構として残すにも金がかかり、その初期費用は復興庁から補助金が出たが、維持については出ない。そのため、入場料を設定するところもあり、それはいかんとして維持費を政府が負担するべきという運動もあるそうだ。

 

案内してくれた係員と話す。波の高さはあのポールの先端の高さでしたと説明を受けた時、えっと声を上げてしまった。言葉が出てこなかった。見上げる高さの波なんてひとたまりもない。津波が校舎を飲み込んだ跡はとても悲惨だ。

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当時中浜小学校では津波からの避難で選択を迫られていた。想定されている避難経路は水平避難だったが、報道での津波到達時間では児童全員を避難させる事が不可能だった。校舎の高さは約6m、標高を合わせれば8mある。予想高さを考慮して屋上倉庫へ垂直避難した。しかし第3波の波の高さが10m近くになるとの報道があり、職員たちは覚悟を決めたそうだ。しかし、引き波の相殺、校舎建設時の盛土2m等の要因があり、屋上へ避難した人々全員が津波に巻き込まれなかった。そして翌朝、自衛隊に救助されるまで避難を続けた。その夜は氷点下まで気温が下がり、倉庫はコンクリート剥き出しで非常に寒く、水も食料もない過酷な状況だ。職員たちの尽力と耐え抜いた児童たちの強さを遺構は伝えてくれた。

 

校舎を後にし、道の駅そうまについた。明言できないがお世話になることになった。ありがたい。最近乾燥気味なので、火の取り扱いには細心の注意を払わなければならない。今日は使わないけど。

 

明日も無事でありますよう気をつけます。

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